いつの間にか夏が来ていた。
昼間の暑さが嘘のように夜の地下鉄の車内は冷房が効いていて、肌寒く感じるほどだった。
中原悠司は長めの黒髪の下の大きな二重の目に疲労の色を浮かばせて、しなやかな身体をぶるっと震わせると、膝の上の鞄を冷房の風除けに抱え込んだ。
勤務先の百貨店が中元商戦に突入したため連日の残業で、とうとう今日は終電近い地下鉄に乗ることになってしまった。
だけど、車内がすいているのは助かる。
ゆっくりとシートに背中を預けて、中原は深い溜息をついた。
彼には、最近、人に言えない悩みがあった。
通勤ラッシュで必ずといっていいほど、痴漢にあうのだ。
最初は気のせいだと思っていた。何かの弾みでただ手が当たっているだけだ、電車の振動で動いているだけだと信じようとした。だが、手の動きは日に日に激しくなり、そして臀部に覚えのある熱い塊を押し付けられたとき、これはもう、気のせいなんかじゃないと、血の気が引く思いがした。振り向いて大声をあげればよかったのかもしれないが、男性である自分が痴漢にあっているということを、公言する勇気が出なかった。
中原は、毎朝満員電車の中で身を縮め、目的の駅に着くまでじっと耐えた。
腰に当てられる熱い塊が何を意味しているのか、中原は身をもって知っていた。
それを教えたのは中原の外商担当顧客の柏木晃彦で、もう半年近くも肉体関係を続けている。
では柏木とは恋人同士かと問われれば、否と応えなければならないだろう。
中原は柏木のプライベートについて、ほとんど知らなかった。
身体を重ねている間はまだいい。だが、柏木と別れた後一人になると、この頃では言い知れない寂しさがこみ上げてくるようになっていた。以前は身体の関係だけでもいいと思っていたのに、今は彼のことをもっと知りたい、彼の心が欲しいという思いを抑えられなくなってきていた。
そう願ってしまう欲深い自分に嫌気がさして、中原は顔を手で覆った。
今も心は、無性に柏木を欲しがっていた。
物思いに耽っている間に電車は中原の住むアパートの最寄り駅に着いた。
ホームに降り立ったのは中原を含めてもほんのわずかで、しんと静まり返った構内を、疲れた身体を引き摺って家路に着く。
薄暗い地下通路を抜けようとした時、急に腕を引かれて体を引き摺り倒された。
気がついたときには、汚れて濡れたトイレの床に転がされていた。誰かが上半身に馬乗りになっていて、その重さでまったく身動きが取れない。ひどく異臭のする荒れてざらざらした手が喉をぐっと圧迫していた。
「お前が悪いんだぜ。いつもエロい顔しやがってよ……」
この男の言っている意味がまるで分からない。中原は首を左右に振って手を外そうともがいたが、喉にまわされた手に力がこめられて、息苦しさのあまり何もできなくなる。
「む、ぐうっ」
力なく戦慄く唇に、突然、太い肉棒が捻じ込まれた。喉奥深くまで、突き刺され、鼻に臭気を放つ叢が押し当てられる。男は中原の鼻を摘まんで、息苦しさに大きく口を開いた隙を狙って、激しく抽送を始めた。喉を突かれる苦痛と酸素不足で、中原の身体はひくっと痙攣した。
どのぐらいの時間が経ったのかも分からないまま、ごぼっとのどの奥に液体が溢れるのを感じ、やがて目の前が真っ赤に染まり、何も分からなくなった……。
「お客さん、お客さんっ」
揺れる霞んだ視界の向こうに、制帽を被った駅員の姿が見えた。
駅員の手が、中原の身体を乱暴に揺すっていた。中原の目が開いたのを確認すると、駅員の代わりに警官の姿が視界に現れた。警官は痛ましそうな表情を浮かべていた。
「今から、病院に運ぶから。自分で起きられますか」
身体には何故か毛布がかかっていた。起き上がろうとしたが、芯まで冷え切っているようで、少し身動きするだけでぎしぎしと軋んだ。その上、そこかしこに澱のようなものがこびり付いて、ひどい臭気を放っていた。何か言おうと口を開こうとしたが、唇や口の中にまで、生乾きの澱が蔓延っている。
「駄目だね。担架、持ってきて」
中原は担架に二人がかりで乗せられ、野次馬が壁のように通路を埋めている中を救急車まで運ばれた。野次馬の好奇心剥き出しの視線に曝されながら、中原は自分の身体に毛布が掛けられている訳をぼんやりと悟った。
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昼間の暑さが嘘のように夜の地下鉄の車内は冷房が効いていて、肌寒く感じるほどだった。
中原悠司は長めの黒髪の下の大きな二重の目に疲労の色を浮かばせて、しなやかな身体をぶるっと震わせると、膝の上の鞄を冷房の風除けに抱え込んだ。
勤務先の百貨店が中元商戦に突入したため連日の残業で、とうとう今日は終電近い地下鉄に乗ることになってしまった。
だけど、車内がすいているのは助かる。
ゆっくりとシートに背中を預けて、中原は深い溜息をついた。
彼には、最近、人に言えない悩みがあった。
通勤ラッシュで必ずといっていいほど、痴漢にあうのだ。
最初は気のせいだと思っていた。何かの弾みでただ手が当たっているだけだ、電車の振動で動いているだけだと信じようとした。だが、手の動きは日に日に激しくなり、そして臀部に覚えのある熱い塊を押し付けられたとき、これはもう、気のせいなんかじゃないと、血の気が引く思いがした。振り向いて大声をあげればよかったのかもしれないが、男性である自分が痴漢にあっているということを、公言する勇気が出なかった。
中原は、毎朝満員電車の中で身を縮め、目的の駅に着くまでじっと耐えた。
腰に当てられる熱い塊が何を意味しているのか、中原は身をもって知っていた。
それを教えたのは中原の外商担当顧客の柏木晃彦で、もう半年近くも肉体関係を続けている。
では柏木とは恋人同士かと問われれば、否と応えなければならないだろう。
中原は柏木のプライベートについて、ほとんど知らなかった。
身体を重ねている間はまだいい。だが、柏木と別れた後一人になると、この頃では言い知れない寂しさがこみ上げてくるようになっていた。以前は身体の関係だけでもいいと思っていたのに、今は彼のことをもっと知りたい、彼の心が欲しいという思いを抑えられなくなってきていた。
そう願ってしまう欲深い自分に嫌気がさして、中原は顔を手で覆った。
今も心は、無性に柏木を欲しがっていた。
物思いに耽っている間に電車は中原の住むアパートの最寄り駅に着いた。
ホームに降り立ったのは中原を含めてもほんのわずかで、しんと静まり返った構内を、疲れた身体を引き摺って家路に着く。
薄暗い地下通路を抜けようとした時、急に腕を引かれて体を引き摺り倒された。
気がついたときには、汚れて濡れたトイレの床に転がされていた。誰かが上半身に馬乗りになっていて、その重さでまったく身動きが取れない。ひどく異臭のする荒れてざらざらした手が喉をぐっと圧迫していた。
「お前が悪いんだぜ。いつもエロい顔しやがってよ……」
この男の言っている意味がまるで分からない。中原は首を左右に振って手を外そうともがいたが、喉にまわされた手に力がこめられて、息苦しさのあまり何もできなくなる。
「む、ぐうっ」
力なく戦慄く唇に、突然、太い肉棒が捻じ込まれた。喉奥深くまで、突き刺され、鼻に臭気を放つ叢が押し当てられる。男は中原の鼻を摘まんで、息苦しさに大きく口を開いた隙を狙って、激しく抽送を始めた。喉を突かれる苦痛と酸素不足で、中原の身体はひくっと痙攣した。
どのぐらいの時間が経ったのかも分からないまま、ごぼっとのどの奥に液体が溢れるのを感じ、やがて目の前が真っ赤に染まり、何も分からなくなった……。
「お客さん、お客さんっ」
揺れる霞んだ視界の向こうに、制帽を被った駅員の姿が見えた。
駅員の手が、中原の身体を乱暴に揺すっていた。中原の目が開いたのを確認すると、駅員の代わりに警官の姿が視界に現れた。警官は痛ましそうな表情を浮かべていた。
「今から、病院に運ぶから。自分で起きられますか」
身体には何故か毛布がかかっていた。起き上がろうとしたが、芯まで冷え切っているようで、少し身動きするだけでぎしぎしと軋んだ。その上、そこかしこに澱のようなものがこびり付いて、ひどい臭気を放っていた。何か言おうと口を開こうとしたが、唇や口の中にまで、生乾きの澱が蔓延っている。
「駄目だね。担架、持ってきて」
中原は担架に二人がかりで乗せられ、野次馬が壁のように通路を埋めている中を救急車まで運ばれた。野次馬の好奇心剥き出しの視線に曝されながら、中原は自分の身体に毛布が掛けられている訳をぼんやりと悟った。
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病院で全身をくまなく調べられ屈辱的な写真を何枚も撮られた後、警察に調書を取られて被害届を出した。中原は無表情で淡々と調べに応じたが、病院の診察の結果、普段から男性との性交渉があるのではと聞かれた時には、さすがに身体を細かく震わせた。
直属の上司だけには事情を明かし、血液検査の結果が出るまでは、精神治療もかねてそのまま入院することとなった。
病院側も気を使ってくれたのか、病室は個室を与えられた。
同期の赤石徹が見舞いに来た。
1人暮らしの中原の事情を知る上司の気遣いか、パジャマなどの入院用品を山と両手に下げてきた。赤石は中原の手をぎゅっと握り締めて、退院したら一緒に暮らそうなどとのたまった。
不思議なことに何も感じなかった。事件から、自分の周りに見えない壁が張り巡らされているようで、言葉も、感覚も、何も心まで届いてこないような感じだ。夜になっても、眠気すらやってこない。目を開けているんだか、閉じているんだか分からないまま、部屋の天井に薄日が差してくるのをぼんやりとベッドの中から眺める朝を何度も迎えた。
何か、とても大事なことを、忘れているような気がする。
いよいよ明日は血液検査の結果が出るという夜、病室のドアが静かにノックされた。
ドアが開いて、仕立ての良いスーツを長身で着こなした端正な顔立ちの男性が入って来た。
僕はこの人を、知っている。
「……中原君」
僕を呼ぶ甘い声、切れ長の目に見つめられ、長い指が伸ばされて頬を優しく挟まれ、重ねられる柔らかな唇……。
………柏木さん。
「うわあぁあぁぁ」
いきなり叫び声をあげて、中原はベッドから立ち上がった。
「僕は汚い、汚いっ、汚いっ……」
震える唇から、次々に言葉が飛び出してくる。
「中原君……」
柏木が足を一歩前に出した。
「寄らないで下さいっ!貴方まで汚れてしまう!」
中原は全身をがたがたと震わせて、柏木から離れようと後ずさった。どこかに逃げ場はないかと辺りをせわしなく見回して、換気の為に開けてある窓に目を留め、そのまま突進した。
「悠司っ!」
柏木の腕が間一髪で中原の膝を支えた。中原の上半身は3階の窓から、ほとんど外へ飛び出していた。
柏木の腕に力がこもり、ゆっくりと中原の身体を室内に引き戻す。
震えの止まらない中原の身体をしっかりとその腕の中に閉じ込めて、柏木は宥めるように囁いた。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう何も、怖いことはないよ」
中原を抱きしめる柏木の身体も震えていた。震えと震えが共振するように、だんだんと中原の身体から力が抜けた。ぐったりと腕の中に崩れ落ちた中原をきつく抱きしめ、顔を押し当てて、柏木はそのまま動かなくなった。
中原の顔の上に水滴が垂れてきた。水滴はひとつ、またひとつと中原の上に落ちてきて、頬を濡らした。
「悠司、愛してる」
歯を食いしばった口から発せられたような声だった。
中原は顔をあげた。柏木は苦しげな表情で顔を伏せていた。
この人の方が、傷ついた顔をしている……。
中原は腕を伸ばして、柏木の頬を撫でた。濡れた柏木の頬の暖かさが心底、愛しかった。頬に当てた手を柏木に捕らえられて、掌に優しい唇の感触を感じた。柏木の唇が当てられている所から新しい温かい血が生まれて、冷え切っていた身体の隅々にまで行き渡っていくようだった。
「好き、柏木さん、大好き……」
中原の目からも、涙がぼろぼろと零れて落ちた。
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直属の上司だけには事情を明かし、血液検査の結果が出るまでは、精神治療もかねてそのまま入院することとなった。
病院側も気を使ってくれたのか、病室は個室を与えられた。
同期の赤石徹が見舞いに来た。
1人暮らしの中原の事情を知る上司の気遣いか、パジャマなどの入院用品を山と両手に下げてきた。赤石は中原の手をぎゅっと握り締めて、退院したら一緒に暮らそうなどとのたまった。
不思議なことに何も感じなかった。事件から、自分の周りに見えない壁が張り巡らされているようで、言葉も、感覚も、何も心まで届いてこないような感じだ。夜になっても、眠気すらやってこない。目を開けているんだか、閉じているんだか分からないまま、部屋の天井に薄日が差してくるのをぼんやりとベッドの中から眺める朝を何度も迎えた。
何か、とても大事なことを、忘れているような気がする。
いよいよ明日は血液検査の結果が出るという夜、病室のドアが静かにノックされた。
ドアが開いて、仕立ての良いスーツを長身で着こなした端正な顔立ちの男性が入って来た。
僕はこの人を、知っている。
「……中原君」
僕を呼ぶ甘い声、切れ長の目に見つめられ、長い指が伸ばされて頬を優しく挟まれ、重ねられる柔らかな唇……。
………柏木さん。
「うわあぁあぁぁ」
いきなり叫び声をあげて、中原はベッドから立ち上がった。
「僕は汚い、汚いっ、汚いっ……」
震える唇から、次々に言葉が飛び出してくる。
「中原君……」
柏木が足を一歩前に出した。
「寄らないで下さいっ!貴方まで汚れてしまう!」
中原は全身をがたがたと震わせて、柏木から離れようと後ずさった。どこかに逃げ場はないかと辺りをせわしなく見回して、換気の為に開けてある窓に目を留め、そのまま突進した。
「悠司っ!」
柏木の腕が間一髪で中原の膝を支えた。中原の上半身は3階の窓から、ほとんど外へ飛び出していた。
柏木の腕に力がこもり、ゆっくりと中原の身体を室内に引き戻す。
震えの止まらない中原の身体をしっかりとその腕の中に閉じ込めて、柏木は宥めるように囁いた。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう何も、怖いことはないよ」
中原を抱きしめる柏木の身体も震えていた。震えと震えが共振するように、だんだんと中原の身体から力が抜けた。ぐったりと腕の中に崩れ落ちた中原をきつく抱きしめ、顔を押し当てて、柏木はそのまま動かなくなった。
中原の顔の上に水滴が垂れてきた。水滴はひとつ、またひとつと中原の上に落ちてきて、頬を濡らした。
「悠司、愛してる」
歯を食いしばった口から発せられたような声だった。
中原は顔をあげた。柏木は苦しげな表情で顔を伏せていた。
この人の方が、傷ついた顔をしている……。
中原は腕を伸ばして、柏木の頬を撫でた。濡れた柏木の頬の暖かさが心底、愛しかった。頬に当てた手を柏木に捕らえられて、掌に優しい唇の感触を感じた。柏木の唇が当てられている所から新しい温かい血が生まれて、冷え切っていた身体の隅々にまで行き渡っていくようだった。
「好き、柏木さん、大好き……」
中原の目からも、涙がぼろぼろと零れて落ちた。
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