ヴィラの扉を開けた途端、乾いた熱気を孕んだ大気に頬を嬲られた。夕日が落ちて、南国の樹林を吹き抜けた風がカリブ海に帰って行く。
母性的な体格に鮮やかな色彩のエプロンを掛けた漆黒の肌のメイドと、その足元でおざなりに尻尾を振っている番犬の見送りに、軽く手をあげて、秋園静は広大な敷地に散らばる豪奢なヴィラと中枢機能を持つセンターハウスを結ぶ小道にカートを滑り出させた。
生命力に満ちた南国の大気に包まれると、窮屈な日常が嘘のように溶けていく。
静は切れ長の美しい目を細めて、大きく息を吸い込んだ。
大学の卒業論文を提出し終え、卒業式を迎えるまでの空白の時を狙われて同い年の従兄弟に強引に誘われた旅行だったが、思い切って来てよかった。
だんだんと近づいてくるセンターハウスは、イギリス植民地時代を思い起こさせる豪奢なグレートハウスのを移築したもので、そのテラスは人工の明かりで遠目にも煌々と照らされていた。
ホテル支配人主催のパーティが開かれているいるそこで、一足先にリゾート入りしている従兄弟と落ち合う約束をしていた。
学生の身でありながらも企業を自らの力で成功させた起業家として、従兄弟の秋園玲哉は実業界に名を知られていた。
平安貴族を祖に持ち、明治維新後は華族の特権により、戦後は時の有力者と閨房を結ぶことによって家格を維持してきた秋園家にあって、玲哉の存在は際立っている。
生粋の秋園家の人々は、企業の経営を卑しいものとして婿養子や婚家の実力者に委託し、自分たちは伝統と文化を守るのが仕事であるとうそぶいて、優雅な社交生活に明け暮れていた。
いくらでも楽に生きられる環境にありながら、自分の足できちんと立ち、自ら人生を切り開いていく従兄弟を、静は心から尊敬していた。
それに比べて僕と来たら……。
静は柔らかな髪をふるふると振って心に蘇りそうになった苦い思いを封印すると、アクセルにかけた足を深く踏み込んだ。
大きく張り出した四角い屋根の車寄せにカートを駐め、黒い肌のドアマンが開けた分厚い扉をくぐる。
白いアーチ型の天井でゆったりと回る大きなプロペラが、ホールを突き抜けた先にあるテラスから聞こえてくる南国の音楽と人々の喧噪を、切れ切れにかき混ぜていた。
洗練され自信に満ちた人々が集っているだろうと思うと、自然に足取りが重くなる。静は小さく息を吐いて、胸ポケットに入れた招待状を布の上から押さえた。
華やかな場所は未だに苦手だ。
「……行こう」
唇をぐっと噛みしめ、テラスに通じる大きなガラス戸に向かって踏み出した静は、しかし不意に足を止めた。
ホールに響き渡る剣呑な英語が、静の耳の奥を鋭く突き刺す。
『この未開の黒んぼめ』
海を一望できるホールに十分な間隔も取って置かれた豪奢な布張りのソファセットの一角に、オーバーアクションでまくし立てる白人男性の姿があった。
脂肪をたっぷりつけた樽のような腹の影に、白いエプロンを着けたメイドが縮こまっている。
黒い手が抱えるティーポットが小さく震えていた。
『お前達はどうしようもない人種だ』
おそらく特別にオーダーさせたのであろう特大のジャケットを振り回しながら、男は更に喚いた。
『この染みをどうしてくれる。格好だけ取り繕ってお上品なふりをしても、生まれは隠せん。所詮、奴隷は奴隷だ』
男の言葉が、静の心をぎりっと突き刺す。
粗相をしたメイドに怒っていると分かっていても、自分の事を言われているような気がした。
『犬め。床に這いつくばって零した茶を舐めろ。そうすれば、チップをはずんでやってもいいぞ』
嗜虐な喜びに溢れた男の声が響く。
『……お許し下さい。旦那様……』
濡れた床に少女が震えながら黒いスカートに包まれた膝をついた瞬間、静の傍らをひやりと冷たい影が過ぎった。
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母性的な体格に鮮やかな色彩のエプロンを掛けた漆黒の肌のメイドと、その足元でおざなりに尻尾を振っている番犬の見送りに、軽く手をあげて、秋園静は広大な敷地に散らばる豪奢なヴィラと中枢機能を持つセンターハウスを結ぶ小道にカートを滑り出させた。
生命力に満ちた南国の大気に包まれると、窮屈な日常が嘘のように溶けていく。
静は切れ長の美しい目を細めて、大きく息を吸い込んだ。
大学の卒業論文を提出し終え、卒業式を迎えるまでの空白の時を狙われて同い年の従兄弟に強引に誘われた旅行だったが、思い切って来てよかった。
だんだんと近づいてくるセンターハウスは、イギリス植民地時代を思い起こさせる豪奢なグレートハウスのを移築したもので、そのテラスは人工の明かりで遠目にも煌々と照らされていた。
ホテル支配人主催のパーティが開かれているいるそこで、一足先にリゾート入りしている従兄弟と落ち合う約束をしていた。
学生の身でありながらも企業を自らの力で成功させた起業家として、従兄弟の秋園玲哉は実業界に名を知られていた。
平安貴族を祖に持ち、明治維新後は華族の特権により、戦後は時の有力者と閨房を結ぶことによって家格を維持してきた秋園家にあって、玲哉の存在は際立っている。
生粋の秋園家の人々は、企業の経営を卑しいものとして婿養子や婚家の実力者に委託し、自分たちは伝統と文化を守るのが仕事であるとうそぶいて、優雅な社交生活に明け暮れていた。
いくらでも楽に生きられる環境にありながら、自分の足できちんと立ち、自ら人生を切り開いていく従兄弟を、静は心から尊敬していた。
それに比べて僕と来たら……。
静は柔らかな髪をふるふると振って心に蘇りそうになった苦い思いを封印すると、アクセルにかけた足を深く踏み込んだ。
大きく張り出した四角い屋根の車寄せにカートを駐め、黒い肌のドアマンが開けた分厚い扉をくぐる。
白いアーチ型の天井でゆったりと回る大きなプロペラが、ホールを突き抜けた先にあるテラスから聞こえてくる南国の音楽と人々の喧噪を、切れ切れにかき混ぜていた。
洗練され自信に満ちた人々が集っているだろうと思うと、自然に足取りが重くなる。静は小さく息を吐いて、胸ポケットに入れた招待状を布の上から押さえた。
華やかな場所は未だに苦手だ。
「……行こう」
唇をぐっと噛みしめ、テラスに通じる大きなガラス戸に向かって踏み出した静は、しかし不意に足を止めた。
ホールに響き渡る剣呑な英語が、静の耳の奥を鋭く突き刺す。
『この未開の黒んぼめ』
海を一望できるホールに十分な間隔も取って置かれた豪奢な布張りのソファセットの一角に、オーバーアクションでまくし立てる白人男性の姿があった。
脂肪をたっぷりつけた樽のような腹の影に、白いエプロンを着けたメイドが縮こまっている。
黒い手が抱えるティーポットが小さく震えていた。
『お前達はどうしようもない人種だ』
おそらく特別にオーダーさせたのであろう特大のジャケットを振り回しながら、男は更に喚いた。
『この染みをどうしてくれる。格好だけ取り繕ってお上品なふりをしても、生まれは隠せん。所詮、奴隷は奴隷だ』
男の言葉が、静の心をぎりっと突き刺す。
粗相をしたメイドに怒っていると分かっていても、自分の事を言われているような気がした。
『犬め。床に這いつくばって零した茶を舐めろ。そうすれば、チップをはずんでやってもいいぞ』
嗜虐な喜びに溢れた男の声が響く。
『……お許し下さい。旦那様……』
濡れた床に少女が震えながら黒いスカートに包まれた膝をついた瞬間、静の傍らをひやりと冷たい影が過ぎった。
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かつかつと足早に近づいていくしなやかな後ろ姿から、凄まじい殺気が立ち上っている。
「……あ」
全ての無駄をそぎ落としたようなシルエットを持つ男が発するオーラに、絶対零度の鋭さを感じて静は喘いだ。
まるで野生の狼のような身のこなしで少女の前に立ちはだかった男は、ソファにふんぞり返る白人に視線を落とした。
『な、なんだ……』
ただ見られているだけなのに白人から上擦った声が上がる。脂肪に包まれた腹部がふるふると小刻みに震えた。
『……何も』
男の切れ長の目がすっと見開かれた瞬間、太った白人はひっと怯えた声を上げて金髪の頭を両手で抱えた。
びりっと空間が緊張する。
「静様」
張り詰めた時を、落ち着いた声が打ち破った。
「……墨津」
静とメイド達との間を割るようにして、テラスに面したガラス戸から大柄な男がぬっと姿を現した。
硬い黒髪を短く刈り込み、うっすらと髭を蓄えた顔に濃いサングラスをかけたこの男は墨津剛史といって、幼い頃からの玲哉の付き人だった。
玲哉が企業を起してからは秘書も兼任し、常に影のように付き従っている。
巨躯の持ち主だが、いざというときにはその大きな躯が嘘のように迅速に動くことを、静は従兄弟と過ごした日々の中で知っていた。
「玲哉様が心配なさってますよ」
おそらく待ちかねた玲哉から指示を出されたのだろう、墨津が無表情に言った。
「ごめん。でも、今……」
静は巨体の後ろを覗いた。つられた振り向いた墨津が、人影に気づいて愛想良く口元を綻ばせる。
『これはエドモンド様。先ほどから奥様がお探しでしたよ』
いつの間にか集まってきたメイド達が床をモップで拭き、染みのついた上着の処理をしていた。
『……おお、秋園の……』
ぐったりとソファに埋もれた白人が、弱々しく墨津に笑みを返す。
男の姿はどこにも無かった。
幻のように忽然と消え去ったあの男の存在を、太った男の額に浮かぶ冷たい汗だけが証明していた。
カリブ海を一望できる石造りのテラスは夜風と出逢いを楽しむ人々で満ちていた。
なめしたような黒い肌に真っ白なシャツを身につけたウエーターが、バカンスらしいラフな、それでいて上質な服装に身を包んだ都会人の間を、グラスを載せた銀色の盆を持って泳ぐように動き回っている。
「静、やっと来たね」
墨津に案内されたテーブルで、玲哉は周囲を一気に華やがせる美貌で微笑んでいた。
起業してから少し色目を暗くした髪が計算され尽くしたさりげなさで波打って、強い光を放つくっきりした二重の眼差しを引き立て、上質の麻シャツからは、多忙な日々にも欠かさないジム通いによって見事に整えられた胸板が覗いていた。
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「……あ」
全ての無駄をそぎ落としたようなシルエットを持つ男が発するオーラに、絶対零度の鋭さを感じて静は喘いだ。
まるで野生の狼のような身のこなしで少女の前に立ちはだかった男は、ソファにふんぞり返る白人に視線を落とした。
『な、なんだ……』
ただ見られているだけなのに白人から上擦った声が上がる。脂肪に包まれた腹部がふるふると小刻みに震えた。
『……何も』
男の切れ長の目がすっと見開かれた瞬間、太った白人はひっと怯えた声を上げて金髪の頭を両手で抱えた。
びりっと空間が緊張する。
「静様」
張り詰めた時を、落ち着いた声が打ち破った。
「……墨津」
静とメイド達との間を割るようにして、テラスに面したガラス戸から大柄な男がぬっと姿を現した。
硬い黒髪を短く刈り込み、うっすらと髭を蓄えた顔に濃いサングラスをかけたこの男は墨津剛史といって、幼い頃からの玲哉の付き人だった。
玲哉が企業を起してからは秘書も兼任し、常に影のように付き従っている。
巨躯の持ち主だが、いざというときにはその大きな躯が嘘のように迅速に動くことを、静は従兄弟と過ごした日々の中で知っていた。
「玲哉様が心配なさってますよ」
おそらく待ちかねた玲哉から指示を出されたのだろう、墨津が無表情に言った。
「ごめん。でも、今……」
静は巨体の後ろを覗いた。つられた振り向いた墨津が、人影に気づいて愛想良く口元を綻ばせる。
『これはエドモンド様。先ほどから奥様がお探しでしたよ』
いつの間にか集まってきたメイド達が床をモップで拭き、染みのついた上着の処理をしていた。
『……おお、秋園の……』
ぐったりとソファに埋もれた白人が、弱々しく墨津に笑みを返す。
男の姿はどこにも無かった。
幻のように忽然と消え去ったあの男の存在を、太った男の額に浮かぶ冷たい汗だけが証明していた。
カリブ海を一望できる石造りのテラスは夜風と出逢いを楽しむ人々で満ちていた。
なめしたような黒い肌に真っ白なシャツを身につけたウエーターが、バカンスらしいラフな、それでいて上質な服装に身を包んだ都会人の間を、グラスを載せた銀色の盆を持って泳ぐように動き回っている。
「静、やっと来たね」
墨津に案内されたテーブルで、玲哉は周囲を一気に華やがせる美貌で微笑んでいた。
起業してから少し色目を暗くした髪が計算され尽くしたさりげなさで波打って、強い光を放つくっきりした二重の眼差しを引き立て、上質の麻シャツからは、多忙な日々にも欠かさないジム通いによって見事に整えられた胸板が覗いていた。
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