南島慎里は雨の降りしきる街を疾走していた。
大粒の雨が細身の身体をしとどに濡らし、黒いシャツを肌に貼り付ける。
ノースリーブの肩口から伸びた白い上腕のタトゥーまでもが、洞窟の眼窩から涙を流しているように見えた。
街路を行き交う人々は都会特有の個人主義で、傘の中からちらりと冷たい視線を投げるだけだ。
今はその無関心さがありがたかった。
どれだけ走ったのか、ふと気がつくと目の前の路面が乾いている。
高架道路の下に入ったらしい。
空を遮られた長い空間には駐車場や公園が作られ、その一角に四角いプレハブ作りの建物が、積み木のように積まれていた。
市が用意したホームレス収容施設だ。
しかしそのすぐ傍らには、偽善に満ちた施政を嘲笑うかのように、ブルーシートの屋根が立ち並んでいた。
その青色に引き寄せられるかのように、南島はホームレスの集落と化した児童公園に足を踏み入れた。
本来ならば、ここが俺のいるべき所なのかもしれない。
木造のベンチは半ば朽ちて、鋭角の角を失っていたが、構わず腰を下ろす。
髪から滴り、こめかみを流れる雨粒をぬぐおうと腕を上げた時、握りしめたままの冊子に気づいた。
今朝までは、幸福の証だった「南島慎里初個展」と印刷されたそれを、ちりぢりに引きちぎる。
水を含んで重くなった紙は、遠くへ吹き飛ばされることもなく、足元に留まった。
その有様が、繋がれてペットのように飼われている自分を連想させる。
靴底で紙片を踏みにじる南島の心の奥底から、新たな怒りの炎が燃え上がってきた。
昼間はまだ晴れていた。
梅雨時とはいえなんとか夕方までは持ちこたえそうな天気に、恋人と顔を見合わせて笑った朝を遠く感じる。
恋人、赤石徹と共に暮らすようになってから、彼の勤務中は必ず絵を描くようにと決められ、何も分からないまま、懸命に絵筆を握った。
赤石の帰宅後はデッサンと人体解剖学を仕込まれ、セックスの後の寝物語は美術史だった。
絵を描くことは好きでも嫌いでもなかった。
指を失ってまで自分を欲してくれた赤石の喜ぶ顔が、ただ見たかった。
何枚も何枚もカンバスを埋めた。
イーゼルの傍らに空の絵の具チューブが積み上がり、テレピン油の匂いが部屋を埋め尽くしても、赤石は軽く眉間に皺を寄せるだけで、南島の描いた絵に何も言ってはくれなかった。
それでいて身体を重ねる時は情熱的に愛を語る。
赤石の楔に貫かれながら、南島は自分の存在について疑問を抱くようになってきていた。
俺に出来ることはセックスだけなんだろうか。
指を切り落としてまで、自分を欲してくれた心を疑ったことはないが、絵を描く手段を失った赤石のために、彼を喜ばせる絵が描きたかった。
それが出来ない自分には、価値がないように思えた。
だからこそ、貸しスペースで個展を開こうと赤石が言い出した時は嬉しかった。
自分の絵を認めてもらえた、側にいていいんだと許された思いだった。
なのに……。
「久しぶりだね……」
ベンチの上で膝を抱えて丸まった背中に、ふわりと上着が掛けられた。
仕立てのいいジャケットに既視感が湧く。
「……鰐沢」
肉食獣の目を持った垢抜けた男に、南島は驚きと恐れが混じった眼差しを向けた。
イメージイラストいただきました
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大粒の雨が細身の身体をしとどに濡らし、黒いシャツを肌に貼り付ける。
ノースリーブの肩口から伸びた白い上腕のタトゥーまでもが、洞窟の眼窩から涙を流しているように見えた。
街路を行き交う人々は都会特有の個人主義で、傘の中からちらりと冷たい視線を投げるだけだ。
今はその無関心さがありがたかった。
どれだけ走ったのか、ふと気がつくと目の前の路面が乾いている。
高架道路の下に入ったらしい。
空を遮られた長い空間には駐車場や公園が作られ、その一角に四角いプレハブ作りの建物が、積み木のように積まれていた。
市が用意したホームレス収容施設だ。
しかしそのすぐ傍らには、偽善に満ちた施政を嘲笑うかのように、ブルーシートの屋根が立ち並んでいた。
その青色に引き寄せられるかのように、南島はホームレスの集落と化した児童公園に足を踏み入れた。
本来ならば、ここが俺のいるべき所なのかもしれない。
木造のベンチは半ば朽ちて、鋭角の角を失っていたが、構わず腰を下ろす。
髪から滴り、こめかみを流れる雨粒をぬぐおうと腕を上げた時、握りしめたままの冊子に気づいた。
今朝までは、幸福の証だった「南島慎里初個展」と印刷されたそれを、ちりぢりに引きちぎる。
水を含んで重くなった紙は、遠くへ吹き飛ばされることもなく、足元に留まった。
その有様が、繋がれてペットのように飼われている自分を連想させる。
靴底で紙片を踏みにじる南島の心の奥底から、新たな怒りの炎が燃え上がってきた。
昼間はまだ晴れていた。
梅雨時とはいえなんとか夕方までは持ちこたえそうな天気に、恋人と顔を見合わせて笑った朝を遠く感じる。
恋人、赤石徹と共に暮らすようになってから、彼の勤務中は必ず絵を描くようにと決められ、何も分からないまま、懸命に絵筆を握った。
赤石の帰宅後はデッサンと人体解剖学を仕込まれ、セックスの後の寝物語は美術史だった。
絵を描くことは好きでも嫌いでもなかった。
指を失ってまで自分を欲してくれた赤石の喜ぶ顔が、ただ見たかった。
何枚も何枚もカンバスを埋めた。
イーゼルの傍らに空の絵の具チューブが積み上がり、テレピン油の匂いが部屋を埋め尽くしても、赤石は軽く眉間に皺を寄せるだけで、南島の描いた絵に何も言ってはくれなかった。
それでいて身体を重ねる時は情熱的に愛を語る。
赤石の楔に貫かれながら、南島は自分の存在について疑問を抱くようになってきていた。
俺に出来ることはセックスだけなんだろうか。
指を切り落としてまで、自分を欲してくれた心を疑ったことはないが、絵を描く手段を失った赤石のために、彼を喜ばせる絵が描きたかった。
それが出来ない自分には、価値がないように思えた。
だからこそ、貸しスペースで個展を開こうと赤石が言い出した時は嬉しかった。
自分の絵を認めてもらえた、側にいていいんだと許された思いだった。
なのに……。
「久しぶりだね……」
ベンチの上で膝を抱えて丸まった背中に、ふわりと上着が掛けられた。
仕立てのいいジャケットに既視感が湧く。
「……鰐沢」
肉食獣の目を持った垢抜けた男に、南島は驚きと恐れが混じった眼差しを向けた。
イメージイラストいただきました
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「……ありがと」
南島は糊の効いた新品のシャツに包まれて、カウンターの隣席に座る鰐沢に頭を下げた。
鰐沢行きつけのセレクトショップに寄った後、リムジンに乗せられて連れて来られた昔ながらの商家を改築した割烹屋は、オフィスビルの谷間に隠れ里のように佇んでいた。
中庭の池には鯉が群れ、長い年月を経た木材だけが持つ安らぎが建物に満ちている。
薄い玻璃の杯に注いだ地酒をゆっくりと嗜んでいた鰐沢が、柔らかく微笑んだ。
その笑顔の優しさに、過去に起こった出来事が現実味を失っていく。
「とんでもない。また君に会えて、私はとても嬉しいんだよ。今日の個展には思い切って足を運んだのに、君はもう帰った後だったからな」
まだ湿り気を帯びている茶色がかった前髪下の目に、さっと翳りが差した。
「……何かあったのかい」
目敏く南島の変化に気づいた鰐沢が、ますます優しい声を出した。
「私でよかったら何でも聞いてあげるよ。話すことによって、気持ちも楽になるんじゃないかな」
心地いい言葉が傷ついた心に染み渡る。
「でも、まずは飲もう。君との再会に、乾杯」
鰐沢に酒をつがれ、南島は肩の高さまで上げた杯をぐいっと飲み干した。
「……それで飛び出してきてしまったのか」
南島は酔いに染まった頬を揺らして、こくりと頷いた。
「個展を見に来てくれた人は、確かに褒めてくれたよ。でも、そんなの全然嬉しくない。俺が欲しかったのは、徹の言葉だけなんだ。今日こそ、あいつに何か言ってもらえると思ってた。でも、何も変わらなかった。あいつは俺の絵を、ただ不機嫌そうな顔で眺めているだけ。俺の絵なんて、俺なんて……」
何の意味もないんだ。
桜材の天板に突っ伏した南島の肩に、静かに腕がまわされた。
「彼、忙しかっただけじゃないのかな。だって今は、実家が大変じゃないか」
鰐沢の腕の下で、ぴくりと細い肩が震える。
「最近、彼の父親が亡くなったことは知っているよね」
伏せたままの頭を、南島は小さく横に振った。
「変だね、君に知らせないなんて。だって恋人なんだろう?」
そう思っていた。
さっきまでは。
「彼の兄さんも、ちょっと前に病死したよね」
それも知らない。
出張だと言って、何日か留守にしたことはあったけど、お葬式に行っていたなんて、一言も聞いてない。
「だからね、今度は彼が父親の基盤を受け継ぐんだよ」
「なんですか、それ……」
南島は顔をあげて、正面から鰐沢に向き直った。
「彼の父親は有名な政治家だ。兄の病死で、彼は、今度の選挙の最有力候補になったんだよ」
自分がいつ赤石のマンションに帰り着いたのか、南島は覚えていない。
先程の会話が夢ではないことは、ポケットに収まった鰐沢の名刺が証明していた。
玄関ドアを入ると、いきなり床に引き摺り倒された。
床に這い蹲った胸元を掴み上げられる。
いつもは爽やかな正統派の俳優顔が、般若のように歪んでいた。
「……なんだ、このシャツ。今までどこへ行っていたんだ。まさか、お前、昔みたいに……」
かっと頭に血が登る。
「なんだよ。はっきり言ったらいいだろ。昔みたいに、今日も身体売ってきたのか、って……」
「……そうなのか?」
本気にする男に悲しくなる。
「もし、そうだって言ったら、あんたどうする?」
思い切り頬を打たれた。
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南島は糊の効いた新品のシャツに包まれて、カウンターの隣席に座る鰐沢に頭を下げた。
鰐沢行きつけのセレクトショップに寄った後、リムジンに乗せられて連れて来られた昔ながらの商家を改築した割烹屋は、オフィスビルの谷間に隠れ里のように佇んでいた。
中庭の池には鯉が群れ、長い年月を経た木材だけが持つ安らぎが建物に満ちている。
薄い玻璃の杯に注いだ地酒をゆっくりと嗜んでいた鰐沢が、柔らかく微笑んだ。
その笑顔の優しさに、過去に起こった出来事が現実味を失っていく。
「とんでもない。また君に会えて、私はとても嬉しいんだよ。今日の個展には思い切って足を運んだのに、君はもう帰った後だったからな」
まだ湿り気を帯びている茶色がかった前髪下の目に、さっと翳りが差した。
「……何かあったのかい」
目敏く南島の変化に気づいた鰐沢が、ますます優しい声を出した。
「私でよかったら何でも聞いてあげるよ。話すことによって、気持ちも楽になるんじゃないかな」
心地いい言葉が傷ついた心に染み渡る。
「でも、まずは飲もう。君との再会に、乾杯」
鰐沢に酒をつがれ、南島は肩の高さまで上げた杯をぐいっと飲み干した。
「……それで飛び出してきてしまったのか」
南島は酔いに染まった頬を揺らして、こくりと頷いた。
「個展を見に来てくれた人は、確かに褒めてくれたよ。でも、そんなの全然嬉しくない。俺が欲しかったのは、徹の言葉だけなんだ。今日こそ、あいつに何か言ってもらえると思ってた。でも、何も変わらなかった。あいつは俺の絵を、ただ不機嫌そうな顔で眺めているだけ。俺の絵なんて、俺なんて……」
何の意味もないんだ。
桜材の天板に突っ伏した南島の肩に、静かに腕がまわされた。
「彼、忙しかっただけじゃないのかな。だって今は、実家が大変じゃないか」
鰐沢の腕の下で、ぴくりと細い肩が震える。
「最近、彼の父親が亡くなったことは知っているよね」
伏せたままの頭を、南島は小さく横に振った。
「変だね、君に知らせないなんて。だって恋人なんだろう?」
そう思っていた。
さっきまでは。
「彼の兄さんも、ちょっと前に病死したよね」
それも知らない。
出張だと言って、何日か留守にしたことはあったけど、お葬式に行っていたなんて、一言も聞いてない。
「だからね、今度は彼が父親の基盤を受け継ぐんだよ」
「なんですか、それ……」
南島は顔をあげて、正面から鰐沢に向き直った。
「彼の父親は有名な政治家だ。兄の病死で、彼は、今度の選挙の最有力候補になったんだよ」
自分がいつ赤石のマンションに帰り着いたのか、南島は覚えていない。
先程の会話が夢ではないことは、ポケットに収まった鰐沢の名刺が証明していた。
玄関ドアを入ると、いきなり床に引き摺り倒された。
床に這い蹲った胸元を掴み上げられる。
いつもは爽やかな正統派の俳優顔が、般若のように歪んでいた。
「……なんだ、このシャツ。今までどこへ行っていたんだ。まさか、お前、昔みたいに……」
かっと頭に血が登る。
「なんだよ。はっきり言ったらいいだろ。昔みたいに、今日も身体売ってきたのか、って……」
「……そうなのか?」
本気にする男に悲しくなる。
「もし、そうだって言ったら、あんたどうする?」
思い切り頬を打たれた。
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